後藤桜子水戸芸術館現代美術センター アシスタントキュレーター
時間の多寡にかかわらず、身を置いた環境によって体得した感覚や動きは日常の行為に現れる。例えば山を歩くときの足の運びや意識された息遣い、小さなものへの眼差し。それは名状しがたい悦びとなって、再びその瞬間が訪れないかと後々体がうずく。 作品に向き合うときもまた、そのような瞬間がある。
ところどころに雪を抱く厳つい山肌を描いた《蒼連》(2018)に取り組んだ際、春原の関心は行為に伴う運動や感覚の積み重ねによって更新される知覚の変化にあったという。山に入り、自らの歩速や視覚に限らない感覚によってその相貌を獲得すること。その経験を画面の前ではタッチやストロークという新たな行為として発揮することが目指されている。《厳IV》(2017)や《連》(2018)においては、図像としての山は描かれず、大振りな筆使いや岩絵具の垂れた跡、ザラザラとしたマチエールなどが風雨にさらされた岩肌の感触を想起させる。
春原にとって、作品のモチーフとしての山との出会いは、住む場所の変化による発見であった。気候や地形の違いから、馴染みのある対象が新たな視点で捉え直されたことは、環境と人間の情緒的なつながりの観点からも興味深い。故郷の峨々たる山の記憶と新たな土地で出会う山々のたおやかさ。当初移住者として向けた山への眼差しは、その場所で制作を続けるなかで、より複雑な態度として現れてくる。春原が現在拠点をおく山形は山岳信仰の地である。作品のモチーフである飯豊山(《蒼連》2018)や龍山(《龍現》2017)も、古くから崇拝の対象となってきた山々だ。しかし、春原にとっての山は古来の畏怖や嫌悪感を伴う宗教的イメージでも、ターナーやフリードリヒが捉えたような崇高さや壮麗さの象徴でもない。作品において、山は目指すべき垂直的な頂としては表されず、また、近景を引き立たせる彼方の存在としても描かれていない。春原は、自らをその只中にとどめ、 パノラミックな視点でその動きを展開するのである。肉体的かつ精神的な到着点としての頂を仰ぎ見るのではなく、とどまることもたどり着くこともなく彷徨いながら心身と山とが交わっていく。そのように捉えられた山は、身体による知覚を可能にする、行為と絵画平面とを密接に結びつけるための対象なのではないか。
春原の絵画には、対象を捉えるための周縁的要素がない 。それはモチーフの視覚的、観念的な意味を取り消し、見る者を直接的な画面との対峙へと誘う。移ろいでしまいそうな起伏を 撫でながら、晴れることのない思考の霧の中を揺蕩ううちに聞こえてくるのは万物の営みの中にある自らの息衝きではないだろうか。「満足というより放心。放心というより華やかな空虚。」山を歩いた詩人の言葉がふと頭をよぎる。