もし、世界が一枚の絵画であれば、どんな絵画でもみな世界である。石田恵嗣の絵画は、描かれた人物の面持ちやジェスチャーから見る者の想像力を掻き立て、物語の入り口へと向かうその手(眼)を引く。情報を削ぎ落とした明瞭な描線から物語の展開を期待するその視線は、しかし、画面をのたくるラフな筆触の線や色彩の帯に搦め捕られ、その先にある読み解きと永久的に戯れる。
児童書や図鑑の挿絵に対する石田の関心は、チェルシー・カレッジ・オブ・アート・アンド・デザイン在学時に遡るという。絵画表現における物語性を貪欲に探究するなかで幼児教材「レディバードブック」を手にして以後、挿絵における記号性と意味との切断は、創作に不条理さや意図しない奇妙さを求める石田を現在の画風へと導いていった。
石田の絵画でまず私たちの視線を捉えるのは、挿絵に倣って描かれた人物や生き物の姿である。空っぽのゴンドラを振り返る少年、焦慮の表情をみせる婦人たち、思わぬ自由落下に青ざめた身体――作品に描かれた彼らが誰なのか、何をしているのか私たちに知る術はない。しかし、その面持ちや身振りは、想像力を駆り立てるのには十分である。「イメージは出発点である。それは、おもちゃ(toy)が幼児を空想遊びへと引き込むのと似ている。」1
これらの一見明確ながら挙動の定まらない導き手から、私たちの視線はその周囲へ、画面全体へとさ迷うように導かれる。好奇心が欲すままに人物の周囲に眼を向ければ、画面の上を横切るのは生き生きとした筆致で描かれた具象とも抽象ともつかない線と塗りである。それらは、ときに不穏に揺れる波動や夜光雲、目の回るような喧騒、あるいは遠くの稜線などをかたどるが、整った輪郭線とはほど遠く、緩急自在に画面を動き回っている。「何かを観察する(toy with)ということは対象を操作することであり、複数の文脈において試行してみることだが、いずれも決定的ではない。」2 作家によるストーリーテリングを期待する視線は、それ自体が生き物のように流れる線が躍動する画面へと放り出される。そのストロークの大胆さの根源には、構造や視覚言語の技巧性による認識論的な絵画表現より、作家自身にも思いもよらないようなものが生まれる瞬間を視る悦びへの指向があるように思われる。双幅の絵画においては、隣り合う画面間の「間」が物語を宙づりにする。しかし、この「間」に想像のための無限の空間を見出すというのは、いささか日本的すぎるだろうか。
描かれたイメージとそこに投影されるイメージの反復は、私たちが「視たい」「理解したい」という欲求を持ち続ける限り湧き出る悦びのための際限なき行為を受容する。それは私たちを魅了する書物のもつ魔術的な無際限性とも似ている。石田の絵画は描かれる対象への過度な意味の付与によって有限になる絵画を、その飄逸な筆触によって無限の想像的なものへと再び解放する。そして、「この錯迷の場所は、直線を知らない。」3
1. 筆者訳。石田恵嗣修士論文『The absurdities in picture books』39。
2. 筆者訳。石田恵嗣修士論文より引用。Susan Stewart, On Longing [Duke University Press, eighth printing 2003, first printing 1993, original publishing by Johns Hopkins University