「ディストピア」という言葉は美術史の中で、廃墟のイメージと結びついてアーティストの創作意欲をかきたててきました。ヨーロッパ文明の始まりともいうべきギリシャ・ローマ時代の遺跡はルネッサンス期の宗教画の背景に描かれているだけでなく、18-19世紀には貴族の子弟が教養をつける旅の一部に組み込まれ、廃墟をテーマにした版画が多く創られています。 現代におけるディストピアとは何でしょうか。今日の社会に蔓延する閉塞感そのものをディストピアと捉え、それに対する答えを求めて、アーティストたちはそれぞれの視点で作品を発表しています。本展では、ユートピアに相対するディストピアをめぐるを通じて、映像・造形作品両面からその多様性、多様な道筋を提示します。本展は恵比寿映像祭の地域連携プログラムに参加しています。 【展覧会出品作家】 ●映像:釘町彰、ムニール・ファトゥミ、ジャンナ・カディロワ、カールステン・ニコライ、副島しのぶ ●造形作品:カネコタカナオ、エコ・ヌグロホ、エカテリーナ・ムロムツェワ、川俣正、元田久治、冨安由真、藤堂
みどころ
釘町彰 Akira Kugimachi 我々の記憶の世界を動画の形で切り取る映像作品。釘町彰はサミュエル・バトラーの小説《Erewhon(エレホン)》からヒントを得た動画を発表しました。ディストピア小説の源流と目される小説のタイトルとなっていますが、スイス国境近くのガビ地方を車で走りながら、車窓からランダムに撮った連続シーンのプロセスを、そのまま映画のようなシークエンスとして映像作品として表現することを考えました。「これは私が偶然に出会った崇高なる風景との対話の軌跡であると同時に、ある未開文明との出会いを驚きと、尊敬と思慮をもって描き、今なお、現代文明に強い疑問意識を投げかける小説エレホンへの私なりの往復書簡でもある。」としています。釘町彰《Erewhon》07min25 / 4K UHD / 2017
ムニール・ファトゥミ Mounir Fatmi フランス/モロッコのアーティスト、ムニール・ファトゥミは昨年の瀬戸内国際芸術祭で、宇野港の三宅医院を舞台に廃墟を示唆するインスタレーションを発表しました。長年使われていない建物の中に、パリ郊外の移民が住んでいたアパルトマンの撤去を目撃したビデオを組み合わせ、注目を集めました。今回、ディストピアというテーマに応答してパリから送られてきたビデオはコロナ禍で作られた《The White Matter》という作品で、森の中の開放的な空間と手術室の閉鎖的な空間、明るい葉の背景と暗い技術環境、曲芸師の全身が動いている様子と手術されている身体の部分的で静止した様子、といった一連のコントラストによって強調された劇的な質を、不吉な音楽が交互にリズムを与えています。曲芸師の不規則で不正確な動きは、外科医の正確なジェスチャーと激しいコントラストを生んでいるといえます。 このビデオでムーニル・ファトミは、メディアの陳腐化に疑問を投げかけながら、現代のテクノロジーが記憶に与える影響について示唆しています。技術科学の進歩により、アナログメディアは急速に代替され、社会がバーチャル化するにつれ、デジタル画像に取って代わられるようになった。そこで作家は、かつて美化されていた本などの時代錯誤な道具を蘇らせ、私たちの世界認識を深く変え、記憶感覚を歪めてきた映像やメディアの変遷を問いかけます。映像のタイトルは、神経系の情報伝達を担う脳内の白質(ホワイトマター)にちなんでいます。ムニール・ファトゥミ《The White Matter》2020-2021 フランス、16min 今回のインスタレーション展示作品として、ファトゥミの《Maximum Sensation》は、スケートボードの示唆するスピード感とイスラム教の祈祷に使うラグを組み合わせた作品です。空中に舞う14台のスケートボードで構成される作品は、異次元なものから生まれるユニークさを備えています。この作品をつくったきっかけについて作家は、アフガニスタンの少女がスケートボードで遊んでいるのをみて、女子の禁止事項の多いイスラム社会でスケートボードは自由に扱えるツールであることを知って驚くと同時に、その高揚感を作品にこめたいと考えたそうです。こうした作品を通じて、辺境的な世界、文化の偏りを垣間見せる作品も、ある種のディストピアといえるのではないでしょうか。
ジャンナ・カディロワ Zhanna Kadyrova 理想郷とは対極にあるディストピアとしてもっとも衝撃的な作品は、ウクライナの作家、ジャンナ・カディロワによる石のパン《パリャヌィツャ》かもしれません。2022年大地の芸術祭にウクライナから出品された作品は、その春に戦火のキエフからウクライナ西部の山あいの村に避難し、川で石を集めて作品化したカディロワに手によるものですが、その制作プロセスを記録したビデオとともに出品されます。生きるか死ぬかの瀬戸際にある状況を象徴するかのようなパンは、アートを通じて平和のメッセージを送りたいという作家の願いを反映しています。「戦争が始まった当時、私は芸術は夢のようにはかないものだと感じた。しかし今は、美術は声を届けてくれると信じている」(作家コメント)。ジャンナ・カディロワ《パリャヌィツャ》2022 石 サイズ可変 photo by Osamu Nakamura
副島しのぶ Shinobu Soejima アートフロントギャラリーでは今回初めて、副島しのぶの作品を展示します。立体アニメーションの技法を使った短編映画や映像、写真、立体作品を制作している副島は、人形を主体としながら、生肉や乳、植物、粘土など形状変化の伴う素材を取り入れることで、物質同士の境界線を融和させ、立体アニメーションによるアニミズムの再考を試みています。 今回は3本の映像作品をご覧いただけますが、その中で《ケアンの首たち》は若くして亡くなった子供が行き着くかもしれない、死後の世界を表現しています。行き着く先は、喜びも悲しみもない世界であり、主人公は早くに亡くなってしまった事への罪悪感がありながらも、その未練の正体もわからずにいる。地面に眠る数多の首を弔う作業は、どこまでも果てしなく続くという、厳しくも避けて通ることのできない儀式をテーマにしています。副島しのぶ《ケアンの首達 》2018 7min.7sec.
藤堂 TODO これまで私たちの身近にあったディストピアのイメージは、人々の営みの痕跡につながるものともいえます。 藤堂は、スクラップアンドビルドを繰り返す都市の新陳代謝に注目し、東京という大都市が高度成長期以来の荒波に揉まれながらその様相をかえてきた街の顔を、瓦礫を使った作品で表現しています。時を経たコンクリートやレンガといった建材の間に積層ガラスをはさみこむことにより、その場に流れてきた時間の積み重ねを感じさせると同時に、解体される建物の在りし日の面影を新しいかたちに変える試みでしょう。藤堂《神宮プール -orange-》2019 瓦礫、積層ガラス h122xw152xd106mm
元田久治 Hisaharu Motoda 同じく都市の風景を扱うことの多い版画家の元田久治。これまで東京のみならず、シンガポールや北京、ドバイ、ニューヨークなどの都市を廃墟の形で作品化してきました。それは人々の記憶にある過去の遺物というよりも、ある種未来予想図的なところもあり、同時代の風景を批評的な眼差しで捉えています。昨年60周年を迎えた首都高は、古いもの新しいものが絶えず入れ替わる、まさに代謝的な要素を持ち合わせており、ひと目でディストピアを連想させる高速道路のジャンクションを創り出しました。箱崎、江戸橋といった身近な場所にも廃墟は潜んでいます。元田久治《Foresight: Hakozaki JCT》2019 リトグラフ 690 x 930mm
冨安由真 Yuma Tomiyasu 一方、冨安由真の描き出す廃屋の世界にはもう少し個人的、私的な雰囲気が漂います。冨安の作品が、幼い頃にみた夢や記憶とより結びついているからでしょうか。 冨安は対談の中で、「昔から高いところは苦手だったはずなんですけれども、そういった夢を小さいころ見ていて。私自身よく夢を見る人間で、それをしかも覚えているんですよね。さらに夢の中でわりと知覚するんです。例えば何か食べたら美味しいとか、音がしていたりとか、場合によっては「痛い」とか。実際には起きたときにはケガとかしていないんですが、(夢の中では)痛い気がして。、私はわりと自分の見た夢をモチーフにした作品をつくったりしています。」と述べています。冨安由真《Shadows of Wandering (The Paintings)》2021 パネルに油彩、フレーム 1265 x 1595mm
川俣正 Tadashi Kawamata 近年の川俣の代表的なプロジェクトに、2016年にポンピドゥー・センター・メスで開催された個展、《Under the water》があります。東日本大震災が起こった後に開催された同展は自然災害を表現した例といえるでしょう。この大型インスタレーションは扉やイス、窓、既に当初の姿をとどめていないような木製の瓦礫によって構成されています。作品全体が見るものに強く訴えてくるのは、2011年3月に日本を襲った巨大な津波の前後に、水の中で人々が何を見たのか、どのようにこの世界が見えたのかという視点と、地震で破壊された建物や崩れた何トンもの瓦礫が水面を覆いかぶさる中で、永遠にその水面には浮き上がってこられないという絶望的で希望が断たれた感覚です。 このTsunamiプロジェクトは、パリのギャラリーKamel Mennour にて、震災後1年経たないうちに展示されました。もし川俣が日本にいたらこのような悲劇を直截的に表現するのは難しかったかもしれません。日本の外にいるからこそ違った角度からこの事象に対峙することができ、このトピックスをもっと客観的な側面から世界にむけて発信することができたといえるでしょう。地震だけでなく多くの犠牲を生み出した津波について、彼の拠点であるパリで展示することができたのは、日本人アーティストによる創造だったからではないでしょうか。その後もTsunami シリーズは継続して制作され、2016年のポンピドーでの個展のために制作された一連の作品の1つ《Tsunami No.16》を今回展示しています。 川俣正《tsunami no.16》2016、パネルに木材、ペイント、1000x1530x80mm
エコ・ヌグロホ Eko Nugroho 明確な形で現代社会の在り方を批評しているのがインドネシアのエコ・ヌグロホです。 エコの描く人物はたいていマスク姿で表現されていますが、情報過多になった社会におけるコミュニケーションレス、最近では人々のコミュニケーションのとり方が偏ってきており、直接向かい合って相手の話を聞いたり、意見を述べたりする機会が減っている状況を描き出しているようです。作家によれば、お面というかマスクで表現したかったのは、この世界をうつろに視ているというか、意味のない視線などだそうです。民主主義が進めば進むほど、かえって人と人とのface to face な対話が減りつつある現状を浮き彫りにすることが、人物の服に書かれた「CRISIS」の文字にも現れています。エコ・ヌグロホ《untitled painting A》2019 キャンバスにアクリル 650x650mm
カネコタカナオ Takanao Kaneko カネコタカナオは、情報過多の現代においてその反乱が生み出すモンスターや、フェイクニュースや匿名の誹謗中傷など昨今問題になるネット上のノイズを可視化するような絵画作品で知られています。昨年開かれたアジアの新しい潮流をとりあげた《二次元派展》(キュレーター:沓名美和)では、カネコの作品の匿名性、独特な諧謔的表現などが注目されました。「インターネットの領域が社会全体に広がり、日常にSNSが浸透するとともに私たちはその利便性だけでなく、匿名性から生まれる誹謗中傷やヘイト、極端な正義、陰謀論といったある種の弊害とも付き合わざるを得なくなっている。偏った情報や発信を「ノイズ」と捉えて無視することもできるが、カネコは人間が処理しきれない過度なノイズの在り様に強く興味を持ち続けている。 様々な姿で描かれるモンスターのキャラクターは、そうしたノイズに晒されたときに生じる人間の二面性を表現しているのだという。モンスターは鋭利な牙やむき出しの眼球が恐ろしげに描かれているものの、どこか自滅的で滑稽さを滲ませているのが印象的だ。リアルな社会とネットの世界で自身のキャラクターを使い分ける人間の複雑性や、膨大な情報を受け止めるうちに偏った思想を強固にしてしまう様子などSNSのなかで変容していく人間性を取り上げて、モンスター化していくキャラクターと重ね合わせている。」とこの潮流の中に位置づけられています。"カネコタカナオ 《XY 01》 2022 アクリル、木製パネル、アクリル板、漫画雑誌 1455 x 1120mm
エカテリーナ・ムロムツェワ Ekaterina Muromtsev 西側で教育を受けたロシア人アーティスト、エカテリーナ・ムロムツェワは作品を通じて現在進行中の闘いを停めるメッセージを送り続けています。《Women in black against the war 》のシリーズは、喪に服しているかのように黒い服に身を包み、白い花を手にした女性たちによる静かな抗議活動に捧げられたものです。ウクライナへの侵攻に反対するこれらの抗議活動は、ロシアのさまざまな都市で行われました。参加者のほとんどは女性でした。その後、世界各地のフェミニスト団体によって、自国政府の行動を批判するために取り入れられるようになりました。これらの作品で使用した最近のロシアの抗議活動の写真では、当局が活動家を特定できないように、頭部が切り取られていることが多々あります。ロシアでは今の状況を議論する際に「戦争」という言葉を使うことが禁止されているため、デモ参加者はこの言葉をアスタリスクや他のスローガンで隠すなどして、平和を訴えます。 作家は悲惨な現状を変えるため、「不正に対して声を上げることは可能だ、という信念を共有するために、私はこれらの作品を制作しました。どんな形であれ、私は戦争に抗議する勇気を持っているすべての人と連帯します。」と述べています。
出展作家 ジョグジャカルタ生まれ。インドネシアを代表するアーティスト。書籍、コミック、ビデオアニメーションなどの他のメディアとのコラボレーションによって壁画、絵画などを作成。1990年代後半の学生を中心とした運動の経験から、社会的な課題をテーマとした作品も多い。シンガポールタイラープリントInstiture、(シンガポール2013年)、キアズマ美術館(フィンランド2008年)、ハーグ(オランダ2005年)で、個展・アートワークなどを展開。リヨンビエンナーレ2013、ヴェネツィア・ビエンナーレ第55回国際美術展に参加。
カネコタカナオの作品に登場するキャラクターは、漫画とグラフィティが融合した独特の画風で描かれる。近年の作品はさらに、タイポグラフィーや幾何学模様、そして実際のコミックのコラージュを層構造で構成した新たなスタイルとして完成させている。 インターネットの領域が社会全体に広がり、日常にSNSが浸透するとともに私たちはその利便性だけでなく、匿名性から生まれる誹謗中傷やヘイト、極端な正義、陰謀論といったある種の弊害とも付き合わざるを得なくなっている。偏った情報や発信を「ノイズ」と捉えて無視することもできるが、カネコは人間が処理しきれない過度なノイズの在り様に強く興味を持ち続けている。 様々な姿で描かれるモンスターのキャラクターは、そうしたノイズに晒されたときに生じる人間の二面性を表現しているのだという。モンスターは鋭利な牙やむき出しの眼球が恐ろし気に描かれているものの、どこか自滅的で滑稽さを滲ませているのが印象的だ。リアルな社会とネットの世界で自身のキャラクターを使い分ける人間の複雑性や、膨大な情報を受け止めるうちに偏った思想を強固にしてしまう様子などSNSのなかで変容していく人間性を取り上げて、モンスター化していくキャラクターと重ね合わせている。 社会システムと人間の進歩スピードが乖離していくことで人間側がシステムのコントロールを失っている状態や、感覚の共有が進むことで個性を放棄していくだろう人間社会の未来予想図など、扱うテーマはシニカルだが、独特の諧謔的表現からは強い社会批判は感じられない。それよりも、どこか可愛らしく憎めないキャラクターを通して、人間社会への強い好奇心と深い親しみを感じることができる。(沓名美和 / 現代美術史家、アーティスト、キュレーター©︎kutsuna miwa)
カールステン・ニコライ Carsten Nicolai
視覚芸術の活動とならび、アルヴァ・ノト(alva noto)の名前で電子音楽を制作発表しているドイツのアーティスト。1999年にレーベルraster-notonを設立し、多様な実験音楽の作品をリリースする傍ら、坂本龍一、池田亮司とのコラボレーション「cyclo」や、他のミュージシャンとの共演でも国際的に知られる。2005年にドイツ国内2ヵ所で開催された包括的な個展の他、ドクメンタⅩ(1997)、第49回・50回ヴェネチア・ビエンナーレ(1999, 2001)など国際展への参加多数。2012年から2013年にかけて、大規模な映像インスタレーション《unidisplay》がモントリオール、ミラノ、フランクフルトを巡回した。国内では山口情報芸術センター[YCAM]での個展(2010)のほか、越後妻有アートトリエンナーレ(2003, 2012)、第4回ヨコハマトリエンナーレ(2011)などに参加している。2014年文化庁メディア芸術祭アート部門大賞受賞。アーティスティックな形態とアプローチの統合を目指すニコライは、グリッド、コード、エラー、ランダムや自己生成構造といった科学的なシステムや数学的パターン、記号論を応用する。2015年12月、ギャラリーでbausatz noto というレコードプレイヤーを組み合わせた作品を展示した。
1970年、モロッコのタンジェ生まれ。市内で最も貧しい地区のひとつ、カサバラタ地区の蚤の市で幼少期を過ごす。廃棄物や廃品が過剰に増殖する環境。後に作家は、この幼少期を最初の芸術教育としてとらえ、この蚤の市を廃墟と化した美術館や、社会を理解するためのバロメーターに例えた。ファトゥミは、危機的状況にある社会におけるアーティストとしての自分の役割を常に意識している これらのビジョンから、彼の芸術作品の本質的な側面が浮かび上がってくる。もはや使われなくなったメディアと産業・消費主義文明の崩壊というアイデアに影響され、彼は芸術作品をアーカイブと考古学の中間に位置づけている。 アンテナケーブル、タイプライター、VHSテープなどの素材を用いて、ムファトゥミは、危機的状況にある社会における世界とアーティストの役割に疑問を投げかける。彼は、建築、言語、機械からなる三位一体のプリズムを通して、そのコードに捻りを効かせ、テクノロジーの歴史とポップカルチャーにも影響を受けている。その結果、モーニル・ファトミの現在の作品を、制作中の未来のアーカイブとして見ることもできる。それらは現代史における重要な瞬間を表しているが、これらの技術的な素材は、知識の伝達やイメージの暗示的な力をも問いただし、テクノロジーやイデオロギーに縛り付ける幻想的なメカニズムを批判している。 第5回光州ビエンナーレ、第10回リヨン・ビエンナーレ、第5回オークランド・トリエンナーレ、第10回・第11回バマコ・ビエンナーレ、第7回深圳建築ビエンナーレ、瀬戸内国際芸術祭、越後妻有トリエンナーレ。彼の作品は、チューリッヒのミグロス美術館、ジュネーブのMAMCOなど、数多くの個展で発表されている。MAMCO、ジュネーブ。ピカソ美術館(ヴァロリス)。AKバンク財団、イスタンブール。美術館クンスト・パラスト(デュッセルドルフ)、ヨーテボリ・コンストハーレ。グループ展では、ポンピドゥー・センター(パリ)、ブルックリン美術館(ニューヨーク)、パレ・ド・トーキョー(パリ)、MAXXI(ローマ)、森美術館、岐阜県美術館、東京都庭園美術館、マトハフ(ドーハ)、ヘイワード・ギャラリー、ヴィクトリア&アルバート美術館(ロンドン)、ファン・アッベミュージアム(アイントホーフェン)、ナッシャー美術館(ダーラム)、ルーヴル・アブダビなど。 アムステルダムのウリエット賞、2006年の第7回ダカール・ビエンナーレのレオポルド・セダール・センゴール大賞、2010年のカイロ・ビエンナーレ賞、2020年のアルタイ・ビエンナーレ(モスクワ)の銀盤賞など、数々の賞を受賞。
幼い頃から古びた神社などを好んで描いていたという元田は、リトグラフの手法で建物が廃墟と化した姿を表現し、未来における過去の記録としての都市を描き続けている。誰もが知っているようなランドマークをモチーフとし、都庁、銀座等の東京、北京オリンピックの鳥の巣、シドニーのオペラハウスやシンガポールのマリーナなどが半ば元の姿を残しつつも、放置され風化する中でまるで自然の一部へと戻っていうようなテクスチュアが細かい線と陰影により巧みに創出される。熊本出身の作家が初めて上京したときに抱いた違和感、アウトサイダーの眼差しを保ちつつも、廃墟を通して都市が再生していく兆しを美しく表現したいという。
冨安由真は、我々の日々の生活における現実と非現実の狭間を捉えることに関心を寄せて創作活動をおこなう作家です。科学によっては必ずしもすべて説明できないような人間の深層心理や不可視なものに対する知覚を鑑賞者に疑似的に体験させる作品を制作。大型インスタレーション作品では、そこに足を踏み入れた鑑賞者は、図らずも自分自身の無意識の世界と出会うかのような体験を得るかもしれない。
藤堂の作品の背景には常に時間がある。その作風は「場所の固有性」をテーマに自ら歩いて集めたものを中心に創造され、様々な形態を持つ。もっとも代表的な作品はドイツ滞在時に制作されたもので、世界各国にある史実を刻んだ土地の石を切断しその切断面に積層ガラスを埋め込み磨き上げたものである。バサルト・シリーズでは玄武岩を使って列柱状のインスタレーションも行うが、これはヨーゼフ・ボイスがドクメンタ7で始めた「7000本の樫の木」プロジェクトからインスピレーションを得たものだという。また、本のシリーズでは西洋の哲学書・小説・聖書や讃美歌などを扱い、積層ガラスをはさむ方法とページを樹脂で固める二種類の方法で作品を制作している。デュッセルドルフに10年以上住み、肌で感じた西欧文化と日本の美意識が融合されている藤堂の作品は、国内外で人気が高い。東日本大震災を機に制作拠点を日本に移してからは、社会の新陳代謝の中で消えていく名建築の瓦礫や故郷の宇和島で養殖された真珠を用いた作品も発表している。