クレリア・チェルニックパリ国立高等美術学校教授(哲学)、美術批評家
黒澤明は《夢》の中で、ゴッホの絵の中に入りこむという、すべての芸術家の究極の夢を実現させた。
南条嘉毅もまた、彼自身のやり方で、あらかじめ思い描いたイメージの中に飛び込む作品を構想している。彼は過去の絵画作品で、描く場所の土と絵具を使ってイメージを構成したが、それは場を一体化させ、一旦解体した上ですべての層と地層を復元する点で「パリンプセスト」を連想させる。パリンプセストとは羊皮紙に書かれた写本のことで、中世の写本職人たちが古代のテキストを消した上に、彼らの時代の文字を書き重ねたものである。異なる文字の層は、透けて読めるため、同時に異なる時代を明らかにする。南条がめざすのも、まさに同じように時間性を層として見せることにある。彼がある特定の場所に関心を寄せるとき、それは客観的な地理構成というよりも、テリトリーに関連する共同体の歴史であり、関係性、投影、重ね合わせの網の目全体がパリンプセストに似ているのである。
南条のインスタレーション作品では、対称的に、パリンプセストに書かれた様々なレイヤーを展開し、人為的な再構成に陥ることなく、二次元から離れ、むしろその中間、2.5次元ともいうべき平面とレリーフの間にある、空間におけるレイヤーの重ね合わせに近い状態にとどまることを目指している。このように、絵画とイメージの連続の中に空間が立ち上がり、見る者は「イメージの間」を実際にさまようことができる。南条の作品は、昔の絵画作品のように、投影と解釈の空間、いわば空間のパリンプセストとしてとどまるのである。
いくつかの作品では、絵画が動き始め、動く表面となり、絶え間なく変化する不安定なレイヤーを提示する。さらに、絵画と鏡の間に一種の混乱がもたらされる。絵画の固定された表面は生き生きと動き出すのに、鏡に映る反射は止まったままであるからだ。色とりどりの虹色の背後にあるのは、まさにこれらのイメージが映し出す海の表面である。まるで海面がその深みから切り離され、動く絵画になったかのようだ。ただし動く水面には奥行きはなく、作家のパリンプセスト・インスタレーションにおけるレイヤーのひとつと化している。
とはいえ水はすべてを包含する表面であり、その干満の中で、太古の地層となり、初期人類や洞窟壁画の地層ともなり、波と浮力の動きの中で他の表面と対話する。ここではすべてが表層で起こっているが、パリンプセストのように、表層は透明なものとして扱われ、その下に織り込まれた層を垣間見せる。このようにして、南条は場の時間層を重ね合わせることで、その場所の本質や魂を明らかにする。表層を投影することによって、陶器、石、日常的な道具などのオブジェが媒介となり、時間の層の深みへと私たちを引き込み、或る表層から別の表層へと私たちを導くのである。影、照明、投影は、新たなイメージを位置づけ、空間を回析するような一連の装置を構成する。
リヒャルト・ワーグナーの歌劇《パルジファル》のように、「ここでは時間が空間になる」といえるだろう。