栗山斉「内なる無限の宇宙」を観るわれわれは、「暗い星」を観る「暗い星」になるのかもしれない。そのイメージが湧出してきたのは、栗山が芸術実験的生活のなかで独自に思考し、制作し、われわれの間の世界に実在させようと試みる「0=1」(無と存在の同等性)の仮説的公準のことを、そしてダークマターや真空や明滅や死生への関心のことを、わたしが知っていたからだろう。しかし同時に、グレイトフル・デッド「暗い星(Dark Star)」(LIVE/DEAD, 1969)のイメージが、わたしのなかに降ってきたからでもある。
「暗い星が衝突する、その光を灰に注いで(Dark star crashes, pouring its light into ashes)/理由は裂け、諸力は枢軸から剥離する(Reason tatters, the forces tear loose from the axis)」「物質の無形の反射のなかで鏡は粉々になる(Mirror shatters in formless reflections of matter)/旋回する氷状の弁花へと溶解するガラスの束(Glass hand dissolving to ice petal flowers revolving)」
「内なる無限の宇宙」が設置された不完全に無音なギャラリーのなかで、見えない内なる音がわたしに聴こえてくるならば、むしろそれはキング・クリムゾン「アスピックゼリーに入るヒバリの舌(Part I)」(Lark’s Tongues in Aspic, 1973)—いまにも壊れそうな制御された空間のなかで、切断や陥没や屈曲や消散の可能性を予期させながら微粒子が揺動し、ガラスや金属の結晶がこすれ合う音—に近似するのかもしれない。あるいは、「破砕(Fracture)」(Starless and Bible Black, 1974) — 静謐なエネルギーだまりの沈黙を突然、理由もなく烈しく破って旋回していく音 — や、それが消滅したあとにおそらく持続する、色とりどりの「無音」の痕跡や軌跡に。
しかし、LIVE/DEADとは何と栗山的な範疇だろう。そして「暗い星」のイメージは、どれだけ「内なる無限の宇宙」の展示を予感させることか。「暗い星」も栗山の準備する真空のように、完全で理念的な無ではなく、不完全な活動する実在として合生の過程にある。栗山の芸術実験的生活は、こうした過程をギャラリーに持ちこもうとする。完全な無としての真空が存在するかどうかを論争するのではなく、改良を重ねた空気ポンプでなるべく空気を抜いたものを「真空」と見なし、何れにしてもそこに実在するものを、この制御された実験室に入る誰もが見ることができるようにしたロバート・ボイルのように。
栗山斉「内なる無限の宇宙」を観るわれわれは、不完全な「暗い星」を抱握しようとする、それぞれ不完全な「暗い星」になるのかもしれない。不完全とは、否定的な意味で言うのではない。作者も作品も観客も完全なるものではなく、いずれもが活動する実在として、ある程度は制御された禍々しさとして、ギャラリー(不完全に明るい部屋、不完全に暗い部屋)で衝突し、何ものかを限定的に合生させるのだから。だからこそ、わたしたちは芸術実験的生活をおくるのだ。