栗山斉 個展 : 内なる無限の宇宙

会期終了

2019年12月6日 - 12月22日

∴0=1 - reflections 2017_fluorescent light, mirrored glass tube, electric cable_“Islamic Arts Festival 20th Session” Sharjah Art Museum, シャルジャ(UAE)
この度アートフロントギャラリーでは、栗山斉の個展を開催致します。
栗山斉は1979年兵庫県生まれ。2011年に東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程を修了、同大学講師を続けながら現在まで制作活動を続けている。科学的な実験を思わせるその作風は、科学者が実験による現象を探求する中で、特殊な条件が時折見せる日常を離れた美しさを発見するように、我々に物事の新しい切り口をアートとして見せてくれる。2年前の北アルプス国際芸術祭では、2つの土蔵を使い、蒸発した水が冷やされ、雲や雨となって水に戻るという日常における一連の現象(流転)を、その土地の背景を持つ場所で独自の科学実験的装置を使い、再認識できる美的な形に表現した。日本は今、気候の変動により大きな災害が目立つようになっており、これまでの常識は通用せず、想定外の脅威によって甚大な被害を出すようになっている。栗山の実験的作品は、ごく当たり前の現象を提示しているのだが、その表現方法としては、北アルプスの山々を模した氷を使ったり、ランプの熱で水を蒸発させたりと、日常のそこにある「今」をあてはめることで、その裏に潜む「今」の変化や未来の状況をも暗示しているようだった。一方、最近の栗山の興味は「無」とは何か?に注がれているようだ。西洋における思想に「無から何も生じない」とする原理(Nothing comes from nothing)がある。これは紀元前5世紀にはギリシャで、また紀元前1世紀にもローマで繰り返し哲学の世界に現れ、強く主張されてきており、現在でも不変のように感じることができる。しかし、これに対し栗山は「無から生じるものも何かあるのでは?」(Something comes from nothing)という考えに基づきながら新たな実験装置型の作品を通して探求しようとしている。この度のアートフロントでの展覧会において栗山は、従来型の「インスタレーションの新作」と、「真空という目に見えない閉ざされたVoid空間を用いたいくつかの試行」の2つの展開で自己の問いかけを鑑賞者に提示する。
一つは栗山の代名詞ともいえる蛍光管を使ったインスタレーションだが、この作品も栗山の0=1を仮定した場合という哲学的で物理学的な問いからスタートしており、今回の展示ではある一つの宇宙が極度に圧縮され、数値を越えた特異点がギャラリーの中に生じたと仮定し、そこから多元的な別の宇宙が急激に成長し、広がっていくイメージを表出させようとしている。1980年代に提唱された俗にいう「ビレンキン仮説」という宇宙の起源にヒントを得た栗山は、真空のポテンシャルにも注目しており、もう一方の作品では、極度の真空状態をガラスの中に作り上げ、大気圧と真空によって作られる、特殊な形と光で直接知覚できない圧力を視覚化する予定。電子と陽電子の同時発生の理論からその前段に当たる真空という状態は、いわば多くの物理学者も認めざるを得ない現象世界に存在する無の現象であり、その無と呼ばれ得る状態を用いて作られる形は、この展覧会を通して無から何かが生じるという栗山の興味をこれまでとは違う形で視覚的なものとして表してくれるはずである。
営業時間11:00 - 19:00 (月、火休)
レセプション12月6日(金) 18:00~20:00
作家在廊日12月8日(日)、15日(日)、22日(日)午後

みどころ

0=1 -filament blue / 2019 / タイプCプリント / H345 × W270 mm

暗い星の芸術実験的生活—栗山斉「内なる無限の宇宙」

榑沼範久精神史家、横浜国立大学教授

 栗山斉「内なる無限の宇宙」を観るわれわれは、「暗い星」を観る「暗い星」になるのかもしれない。そのイメージが湧出してきたのは、栗山が芸術実験的生活のなかで独自に思考し、制作し、われわれの間の世界に実在させようと試みる「0=1」(無と存在の同等性)の仮説的公準のことを、そしてダークマターや真空や明滅や死生への関心のことを、わたしが知っていたからだろう。しかし同時に、グレイトフル・デッド「暗い星(Dark Star)」(LIVE/DEAD, 1969)のイメージが、わたしのなかに降ってきたからでもある。

「暗い星が衝突する、その光を灰に注いで(Dark star crashes, pouring its light into ashes)/理由は裂け、諸力は枢軸から剥離する(Reason tatters, the forces tear loose from the axis)」「物質の無形の反射のなかで鏡は粉々になる(Mirror shatters in formless reflections of matter)/旋回する氷状の弁花へと溶解するガラスの束(Glass hand dissolving to ice petal flowers revolving)」

 「内なる無限の宇宙」が設置された不完全に無音なギャラリーのなかで、見えない内なる音がわたしに聴こえてくるならば、むしろそれはキング・クリムゾン「アスピックゼリーに入るヒバリの舌(Part I)」(Lark’s Tongues in Aspic, 1973)—いまにも壊れそうな制御された空間のなかで、切断や陥没や屈曲や消散の可能性を予期させながら微粒子が揺動し、ガラスや金属の結晶がこすれ合う音—に近似するのかもしれない。あるいは、「破砕(Fracture)」(Starless and Bible Black, 1974) — 静謐なエネルギーだまりの沈黙を突然、理由もなく烈しく破って旋回していく音 — や、それが消滅したあとにおそらく持続する、色とりどりの「無音」の痕跡や軌跡に。 
 しかし、LIVE/DEADとは何と栗山的な範疇だろう。そして「暗い星」のイメージは、どれだけ「内なる無限の宇宙」の展示を予感させることか。「暗い星」も栗山の準備する真空のように、完全で理念的な無ではなく、不完全な活動する実在として合生の過程にある。栗山の芸術実験的生活は、こうした過程をギャラリーに持ちこもうとする。完全な無としての真空が存在するかどうかを論争するのではなく、改良を重ねた空気ポンプでなるべく空気を抜いたものを「真空」と見なし、何れにしてもそこに実在するものを、この制御された実験室に入る誰もが見ることができるようにしたロバート・ボイルのように。 
 栗山斉「内なる無限の宇宙」を観るわれわれは、不完全な「暗い星」を抱握しようとする、それぞれ不完全な「暗い星」になるのかもしれない。不完全とは、否定的な意味で言うのではない。作者も作品も観客も完全なるものではなく、いずれもが活動する実在として、ある程度は制御された禍々しさとして、ギャラリー(不完全に明るい部屋、不完全に暗い部屋)で衝突し、何ものかを限定的に合生させるのだから。だからこそ、わたしたちは芸術実験的生活をおくるのだ。

出展作家

栗山 斉Hitoshi Kuriyama

栗山斉は1979年兵庫県生まれ。科学的な実験を思わせるその作風は、科学者が実験による現象を探求する中で、特殊な条件が時折見せる日常を離れた美しさを発見するように、我々に物事の新しい切り口をアートとして見せてくれる。「無」と「存在」について作品制作を通じて探求し、近年では「0=1」という独自の仮説を打ち立て、「無」と「存在」が同等であることを作品によって現象的に実証する試みを行っている。