クレリア・チェルニックパリ国立高等美術学校教授(哲学)、美術批評家
石田恵嗣の絵画は一見、西洋の絵本、イソップ童話、アンデルセン物語の絵に似ている。しかしよく見るとマジックリアリズムを感じさせるような、日常生活と不思議な世界への入り口とが入り混じった奇妙な好奇心が読み取れる。そこにあるのは訓話や無駄話ではなく、沈黙した静かな不思議さであり、登場するキャラクターの思いがけない出会いの中で 意味と言語が浮遊するようだ。この世界と言説の宙づり状態は、「モンタージュ」との三重の関係性によって構築されている。
一つ目のモンタージュはコラージュの意味で捉えられる。石田は多様な素材―マンガ、子供向けの本、西洋の図鑑など―から引き出した要素を選び、それらを組み合わせて全体としては明白な、しかしどこか不安なイメージに構成しようとする。モンタージュの手法は、たとえそれが実験的であろうと映画上であろうと、各要素のぶつかり合いがある種のショックを起こすことを志向している。ヴァルター・ベンヤミンはエイゼンシュテインの《アトラクションのモンタージュ》の分析を発展させ、モンタージュの視覚的な衝突が、政治的な場面でも単に感情的でも観る者に何らかの反応を迫ることを強調した最初の理論家であった。確かにイメージのモンタージュは微妙な不協和音を生み出し、それは石田の作品から零れ落ちる一片の音楽のようだ。
2番目の意味はマヨネーズをつくる過程に例えられるだろう。実際、異質な要素をコラージュするだけでなく、それらが形を変えて混じり合い、複数のモノが別の一つに融合しなければ一体化したとはいえない。色目を抑えた石田の作品では、イメージの統一とバランスを計り、二つの可能性のどちらかという余地を残している。すなわち、黄色と緑の色調の狭間で、それが昼なのか夜なのか、夢の中の出来事か昨日あったことなのか、判断がつかない。そのような曖昧さは、卵の白身を泡立てると重力に反してふわっと立ち上がる様を想起させる。
最後のモンタージュは、まさにこうして我々に向けて立ち上がったイメージと我々の関係性にある。ここでは、モンタージュは「足場」のようなものとして、描かれた作品からイメージを取り出し、キャンバスと鑑賞者の中間的な空間に保持する。石田の作品は吊り橋のように、マンガの世界とヨウカイ(妖怪)の世界、昨日と今日の世界、巣穴から出てきたモグラの絵描きと我々の世界を―綱渡りのような優雅さで―繋いでいくのだ。