中原佑介とその時代 ーアートフロントギャラリー・セレクション

次回開催

2026年3月26日 - 5月30日

中原佑介 兵庫県立美術館美術情報センターで、2007年 撮影:バンリ
このたび、アートフロントギャラリーでは、「中原佑介とその時代 ― アートフロントギャラリー・セレクション」展を開催いたします。戦後日本の美術批評の地平を切り拓き、2011年3月、東日本大震災の直前に逝去した中原佑介。その膨大な仕事を集成した『中原佑介美術批評選集』全11巻が2026年3月に完結を迎えました。中原佑介没後15周年にあわせて、選集の中で取り上げられている作家の中から、アートフロントギャラリーにゆかりの深い作家の作品を紹介します。
営業時間火曜~土曜、祝日 11:00AM~5:00PM
休廊日日曜、月曜(5月3日、4日は営業)

出展作家

赤瀬川 原平Genpei Akasegawa

赤瀬川源平 (1837-2014) は、高松次郎、中西夏之らともに「ハイレッド・センター」で活動を行いますが、中原佑介はその活動を顧問として支え、同世代の表現者に伴走する批評家として、その後も共闘していきます。赤瀬川が自身の作品《模型千円札》をめぐり通貨及証券模造取締法違反で起訴された「千円札裁判」においては、中原は特別弁護人の一人として出廷し、この表現行為が芸術の本質に根ざしたものであることを法廷で論理的に擁護しました。1967年9月の「美術手帖」に発表した文章において、象徴的な裁判の推移を追って「芸術は裁かれうるか」という命題を詳細に省察しています。
【第4巻】『「見ることの神話から」-アイディアの自立と芸術の変容』参照

青木 野枝Noe Aoki

青木野枝 (1958-) は、工業用の鉄板から丸などの基本となるかたちを切りだし、つなぎ合わせる作業を繰り返して作品を作り上げる作家です。2009年の「大地の芸術祭」では、80年近く使われてきた旅館の蔵の内外を、溶接された無数の輪がつなぐ《空の粒子》を制作しました。鉄の円環が蔵の室内だけでなく外壁にも広がるこの作品を見た中原佑介は、展示空間とされる蔵もまた作品そのものと一体となり、建物自体が芸術作品に変貌させられたと述べています。2009年の「大地の芸術祭・記録集」に収録された文章のなかで、空き家や廃屋を展示空間として展開される作品について、「脱芸術」という言葉を提示しました。
【第10巻】『社会の中の美術-拡張する展示空間』参照

荒川 修作Syusaku Arakawa

戦時下で幼少期を過ごした荒川修作 (1936~2010) は、戦後1957年に読売アンデパンダン展に初出品し、1960年には「ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ」の結成に参加します。初期は柩を思わせる木箱とセメントの塊が用いられた立体作品《「棺桶」シリーズ》を発表し、中原佑介が「ナンセンスの美学」を体現する作品として論じています。1961年に渡米してからは画面に図形、文字、矢印などを描き込んだ《図形絵画》と呼ばれる一連の作品を制作し、「絵についての絵」を提示しました。後年はパートナーのマドリン・ギンズと共に、死を克服するための試みとして「天命反転」の概念を提唱し、《養老天命反転地》《天命反転住宅》など建築作品も手がけました。
【第3巻】『前衛のゆくえ-アンデパンダン展の時代とナンセンスの美学』参照

粟津 潔Kiyoshi Awazu

戦後日本のグラフィックデザインを牽引した粟津潔 (1929-2009) は、中原佑介と様々な場面で多角的に協同してきました。粟津の初期から全盛期に至るグラフィック・絵画作品を網羅した代表的な作品集『粟津潔・作品集 全3巻』では、中原が編集を担当しました。また1968年に発刊が始まった雑誌『季刊フィルム』では、武満徹や松本俊夫ら複数の編集委員の中に2人もともに名を連ね、映像・現代美術・デザインの境界を横断する議論を展開しています。中原は、グラフィックデザインを通じて美術、映画、演劇など多様な分野を横断し活躍した粟津の仕事について、「粟津潔のポスター」(1978年)という論考で時系列に沿って概観しています。
【第11巻】『作家論-西欧・東欧・ロシア・南北アメリカ・東アジア・日本』参照

靉嘔Ay-O

茨城県に生まれた靉嘔 (1931-) は、1950年代、池田満寿夫らと共に「デモクラート美術家協会」に参加し、明るい色彩の油彩画を発表し注目されました。1958年にはニューヨークに渡り、箱の穴に指を入れ鑑賞する《フィンガー・ボックス》や、周囲の環境を取り込んだインスタレーション等、絵画の枠にとどまらない人間の五感に訴える作品を発表し、また国際的な芸術運動「フルクサス」に参加します。1960年代半ばから、可視光線のスペクトル(虹の階調)を用いた独自の様式を確立し、「虹のアーティスト」と呼ばれるようになります。1958年に靉嘔がニューヨークへ渡る際、中原佑介は「靉嘔渡米後援会」の発起人の一人として名を連ね、彼の活動を支えました。

クリスト&ジャンヌ・クロードChristo & Jeanne-Claude

クリスト(1935-2020)はソフィアの美術学校とウィーン美術アカデミーで学んだ後、1958年パリに移住し、初期は肖像画と缶や工業製品などを布で梱包する作品を手がけました。ジャンヌ=クロード(1935-2009)はチュニス大学でラテン語と哲学を専攻、1958年にパリでクリストに出会い、2人で公共空間での活動を開始します。中原佑介は著書『クリスト―神話なき芸術の神話』で、現代芸術がかつての宗教的・伝統的な「神話」を失った後、いかにして社会や自然と新たな関係を築くかを論じました。1991年に日本の茨城とカリフォルニアで行われた《アンブレラプロジェクト》の開催にアートフロントギャラリーが関わり、現在でもクリストのドローイング、リトグラフなどを扱っています。

遠藤 利克Toshikatsu Endo

遠藤利克 (1950-) は、1970年代より焼成した木、水、土、金などを用い「円環」「空洞性」等を造形の核とした作品を発表、自然と人間の関係を問う彫刻作品の制作を続けています。2003年から「大地の芸術祭」に参加したほか、「南飛騨 Art Discovery」(2024年)などにおいて現在も精力的に作品を発表しています。遠藤は、中原佑介のキュレーションによる第10回東京ビエンナーレ「人間と物質」展を愛知で見て、何かが自分の中で動きだしたと言います。いわゆる「もの派」と同じように物質感を前面に押し出そうとしながらも、遠藤の問題意識は物質の背後にある身体感覚や物語性を追求する方向へと向っていきました。

袴田 京太朗Kyotaro Hakamata

袴田京太郎 (1963-) は、1994年文化庁芸術家在外研修員として渡米後、1996年五島記念文化賞美術新人賞受賞による海外研修として中国、チベット、ネパールなどに滞在します。初期の頃は、FRP、ベニヤや鉄板等の身近な素材を使った作品が特徴でしたが、近年は色とりどりのアクリル板を幾層にも重ねた彫刻作品で広く知られています。1993年にヒルサイド・ギャラリーで開催された「袴田京太朗展 点滅」において、中原佑介は「袴田京太郎の開かれた形態」というテキストを寄稿しています。

彦坂 尚嘉Naoyoshi Hikosaka

彦坂尚嘉 (1946-) は、多摩美術大学絵画科在学中の1969年に堀浩哉、石内都、刀根康尚、宮本隆司らとともに「美術家共闘会議(美共闘)」を結成し、反体制運動に参加します。1970年より自宅の8畳間と縁側にラテックスを大量にまき、乾くまでの様子を撮影する《フロア・イベント》を開始。1970年代以降の日本のコンセプチュアル・アートの先達となって、美術表現の制度そのものを根元から問い直す活動を続けています。彦坂は「制度としての美術」を厳しく批判する立場で知られますが、中原佑介ら先代の批評家が築いた言説を検証し、時には批判的に乗り越えようとしました。

堀 浩哉Kosai Hori

堀浩哉 (1947-) は、多摩美術大学入学と同年の1967年、仲間を募って《自己埋葬儀式》というパフォーマンスを行い美術家としての活動を開始します。1960年代末には学生運動に参加して美術の制度性を問い直す「美術家共闘会議 (美共闘)」の議長となり、バリケード封鎖などの学生運動を主導しました。当時、大学の正規授業を拒否していた学生側は、自分たちが信頼できる外部の知識人を「自主講座」の講師として構内に招いていましたが、そのうちの一人が中原佑介でした。堀らの「表現とは何か」という根源的な問いに、中原は対等に向き合いました。

一原 有徳Arinori Ichihara

徳島県に生まれ幼少時に北海道の小樽に移住した一原有徳 (1910-2010) は、長く小樽を拠点に活動を続けた版画家で、かねてよりアートフロントギャラリーがその版画作品の販売業務を行ってきました。小樽地方貯金局に勤めながら、石版や金属版の腐食を利用した独自の版画を編み出し、50歳にして東京画廊で個展デビューしました。中原佑介は1960年に開催されたこの「一原有徳版画展」に展覧会評を寄せ、小品については一定の評価をしつつ、大きな作品については「機械とか鉄管の再現といった傾向が強く、一種の自然主義に堕している」と評しました。
【第3巻】『前衛のゆくえ-アンデパンダン展の時代とナンセンスの美学』参照

今井 俊満Toshimitsu Imai

中原佑介にとって、今井俊満 (1928-2002) は戦後日本美術が国際的文脈へ接続していく過程を体現する作家の一人でした。今井は、パリを拠点にアンフォルメル以後の抽象表現を展開しつつ、単なる西欧の追随ではなく、日本的感性や身体性を内包した独自の絵画を切り拓いた作家でした。中原は、今井の作品が激しいマチエールや身体性を伴いながらも、叙情性や東洋的な感覚が内在している点に注目し、日本の美術が同時代の世界美術と対話し得ることを示す具体例と考えていました。
【第2巻】『日本近代美術史-西洋美術の受容とそのゆくえ』参照

磯辺 行久Yukihisa Isobe

磯辺行久 (1936-) は1950年代から版画を制作し、1960年代にはいるとワッペン型を反復したレリーフを制作して一躍注目を集めました。1965年にニューヨークに渡ってからエコロジカル・プランニングを学び、その作風は大きく転換してきます。帰国後、地域環境を形成している気象・地質・地形・水・土壌・植物、歴史文化等を資源として位置づけた地域計画を調査・研究を行ってきました。2000年に始まる「大地の芸術祭」との関わりは深く妻有の大地で新作の発表を続けていますが、中原佑介は2000年、2003年、2006年と芸術祭を訪ね、磯辺作品に接しています。信濃川の昔の姿を黄色いポールで表現した《川はどこへいった》について、「ひろがる緑の田圃とそれに拮抗するように直立する無数の黄色い棒の、色鮮やかなコントラスト」が印象的で、「測量術の非効用化によって、それは視覚芸術の技術に転化された」と語りました。
【第11巻】『作家論-西欧・東欧・ロシア・南北アメリカ・東アジア・日本』参照

イリヤ&エミリア・カバコフIlya & Emilia Kabakov

イリヤは1933年、旧ソ連(現ウクライナ)生まれ。1950年~1980年代は公式には絵本の挿絵画家として活躍する一方で、当時の体制下で非公式の芸術活動を続けていました。1980年代半ばに海外に拠点を移し、旧ソ連の日常を記憶の空間として再現した《トータル・インスタレーション》を「ヴェネチア・ビエンナーレ」「ドクメンタ」等に出展して注目されます。1989年以降エミリア(1945~)と共同で制作を行い、連名で人間の想像力を引き出すためのプロジェクトに取り組みました。水戸芸術館で開催されたイリヤの日本での初個展「イリヤ・カバコフ:シャルル・ローゼンタールの人生と創造」(1999年)で、中原佑介とイリヤは、架空の物語を用いた表現について対談を行いました。

河口 龍夫Tatsuo Kawaguchi

河口龍夫 (1940-) は中原佑介と同郷の神戸に生まれ、25歳で「グループ〈位〉」を結成して活動を開始。1960年代から今日まで、“見えること”と“見えないこと”、そしてその関係性をテーマに制作活動を続けています。作品は、たとえ目に見えなくても存在する確かな物質感やそこに流れる時間や空白、物の生や死を表現しています。中原が「関係-無関係」という文章で河口作品を深く考察した一方、河口は、中原の死後にこの文章がおさめられた書籍を素材にした《関係-中原佑介・封印された批評のフロッタージュ》などの作品を制作しました。
【第11巻】『作家論-西欧・東欧・ロシア・南北アメリカ・東アジア・日本』参照

川俣 正Tadashi Kawamata

1982年に「ヴェネチア・ビエンナーレ」に参加して以来世界を舞台に活躍する川俣正 (1953-) は、《ワーク・イン・プログレス》という手法を使い「制作プロセスそのもの」が作品であるというプロジェクトを国内、国外の各地で展開してきました。中原佑介は1993年の『芸術新潮』のなかで「私が選んだ“戦後美術ベストテン”」に川俣の《工事中シリーズ》を選んだほか、「積木と自然」という文章のなかでは、積木のように木片や板などを組み合わせ、解体が容易であると思わせる「ゆるい構造」で作られた川俣の作品を、他の彫刻などの「かたい構造」の作品と対比させ、「出来事としての作品」を示すものとして注目しています。
【第11巻】『作家論-西欧・東欧・ロシア・南北アメリカ・東アジア・日本』参照

元永 定正Sadamasa Motonaga

三重県に生まれた元永定正 (1922-2011) は、1940年大阪中之島美術研究所に入所したのち、1955年に「具体美術協会」に参加し、16年間中心メンバーとして活動しました。それと同時に、絵本作家としても活動した人物です。具体時代には、未知なる自然を創作の源とし、色水をビニール袋に入れて吊るした作品や煙を使ったパフォーマンスなど、斬新な素材を用いて自然現象を表現した作品を発表しています。中原佑介は、袋に入った煙が破られて自然の原理で周囲の空間に広がっていく元永の作品について、作家がコントロールできない物質の状態を提示した作品として「自然派」と呼んでいます。
【第8巻】『現代芸術とは何か-二〇世紀美術をめぐる「対話」』参照

中西 夏之Natsuyuki Nakanishi

中西夏之 (1935-2016) は、大理石の粉を使った石膏状の画面にエアコンプレッサーでT字形をデザインした平面作品《韻》によって1959年の「シェル美術賞」佳作を受賞、その後、日用品を画材にした《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》などを制作していきます。中原佑介は、1962年の雑誌『三彩』147号に掲載された「中西夏之論」で、中西が絵画から離れて物質のアッサンブラージュへと向かうプロセスを鋭く分析しました。日常的な事物(洗濯バサミなど)を本来の人間との関係から切り離し、物質そのものの異質さを「物質の反逆」として際立たせる中西の手法を、「ナンセンスの美学」として高く評価しました。
【第3巻】『前衛のゆくえ-アンデパンダン展の時代とナンセンスの美学』参照

クレス・オルデンバーグClaes Oldenburg

クレス・オルデンバーグ (1929-2022) は、巨大な彫刻や日常品をモチーフにした作品で知られる、スウェーデン生まれのアメリカのポップ・アートを代表する彫刻家です。 日常にあるありふれた物体を極端に巨大化させたり、本来硬いものを柔らかい素材で作ったりすることで、私たちの知覚や都市空間のあり方を問い直しました。 中原佑介は「巨大化願望」という文章で、ルネ・マグリットからジャクソン・ポロックを経由して、オルデンバーグの《空想のモニュメント》について広い視野から論じています。「日常品の巨大化」という現象を、単なるスケールの変更ではなく、物体の意味を解体し再構築する試みとして評価しました。
【第3巻】『前衛のゆくえ アンデパンダン展の時代とナンセンスの美学』参照

斎藤 義重Yoshishige Saito

1904年生まれの斎藤義重 (1904-2001) は戦前から活動する美術作家で、1933年から1935年まで古賀春江、東郷青児らが主宰するアヴァンギャルド洋画研究所に在籍し、構成主義、ダダイスムなどから刺激を受けて作品制作を行いました。戦後、瀧口修造の知己を得て日本で初めての個展「斎藤義重展」を東京画廊で開催し、その存在があらためて注目されます。中原佑介は、戦前期、戦後期の両方の作品が展示された1973年の斎藤の個展に際して、「”抽象絵画の草分け”の一人としての斎藤義重の仕事と、戦後に期待される新人としてクロース・アップされた斎藤義重のそれ以来の作品とを、ひとつの視野のなかで包括的に眺め得る機会が実現した」と書き、長きに渡るその仕事の意味を分析し、論じています。
【第11巻】『作家論-西欧・東欧・ロシア・南北アメリカ・東アジア・日本』参照

関根 信夫Nobuo Sekine

「もの派」を代表する作家、関根伸夫 (1942-2019) について中原佑介は、最初期の代表作《位相-大地》が1968年に神戸市須磨離宮公園で発表された翌年に批評を書いています。「アクション・ペインティング」などの新しい表現の潮流に乗じて芸術作品とは一体なにかという議論が巻き起こる中、若き美術家の提示したこの“新しい”作品を通じて、「芸術」と「批評」の関係について思考を巡らせます。中原はその後の「もの派」の動向を高く評価し、1960~1970年代の日本の現代美術シーンにおいて、関根の作品やその革新性を理論的に位置づけました。
【第1巻】『創造のための批評-戦後美術批評の地平』参照

菅井 汲Kumi Sugai

菅井汲 (1919-1996) は、グラフィックデザイナーとして活動する一方で日本画を中村貞以に学び、さらに欧米の美術にも深い関心を寄せて1952年に渡仏します。初期は文字や記号を抽象化した作品を制作しますが、1960年代以降、交通標識や車のスピード感にインスピレーションを得た、鮮烈な色彩と明確な輪郭線を持つ作風へと変化します。中原佑介は、基本の造形要素を決めて、その組み合わせから作品を作り出す菅井の作品を、モンドリアンと同列に語り「機械的手段による絵画」と評価しました。また近年、 中原が館長を務めていた兵庫県立美術館にて、「館長菅井汲を語る」(2007年)と題した講演会を行っています。
【第8巻】『現代芸術とは何か-二〇世紀美術をめぐる「対話」』参照

高松 次郎Jiro Takamatsu

高松次郎 (1936-1998) は1961年から読売アンデパンダン展において作品を発表し、1962年には中西夏之、赤瀬川原平とともに「ハイレッド・センター」を結成してハプニングを行います。1960年代中頃からは国内の美術展において受賞を繰り返し、国外でも「ヴェネチア・ビエンナーレ」「ドクメンタ」において日本を代表する美術家として紹介され、その名は広く国内外に知られます。中原佑介は、1966年に東京画廊で開催された個展「高松次郎:アイデンティフィケーション」展のカタログに論評「探索の絵画」を寄せます。この時期に高松が展開していた「影」をモチーフにしたシリーズについて、その表現の本質を詩的な文章で分析しました。
【第3巻『前衛のゆくえ-アンデパンダン展の時代とナンセンスの美学』参照】

田中 信太郎Shintaro Tanaka

1960年代の「アンデパンダン展」「ネオ・ダダ・オルガナイザーズ」での活躍など、前衛美術の旗手のひとりに数えられる田中信太郎 (1940-2019) は、緊張感を孕んだミニマルな絵画、彫刻作品などで独自の表現を貫き、デザイナーや建築界にも強い影響を与えています。1968年に発表した三枚の正方形のキャンバスを三種類のネオンで囲んだ《マイナー・アート A・B・C》について、中原佑介は『三彩』に連載していた「美術時評-1968年美術回顧」で、美術作品を「物体」から「状態」へと移行させようとする少数の例として、「今年見たあれこれの作品のうちでも、もっとも印象的なもののひとつであった」と語っています。また、1970年中原が企画した国際展「人間と物質」で「ネオ・ダダ」のメンバーの中で、唯一出品しています。
【第4巻】『「見ることの神話から」-アイディアの自立と芸術の変容』参照

辰野 登恵子Toeko Tatsuno

辰野登恵子 (1950-2014) は、1970年代の「ポスト・ミニマリズム」の動向などに根ざして、線描の強弱や僅かなにじみにより生まれる差異の形象化を、版画やドローイングなどを通して試行し、1973年に中原佑介がコミッショナーを務めた東京ビエンナーレに参加します。1980年代以降は、絵画を中心に、アラベスク、ダイヤ、方形、球など植物的かつ幾何学的な多種多様なモチーフの連続的なパターンと、油絵具の質感を生かした色彩表現を行いました。1995年には史上最年少(当時)で東京国立近代美術館での個展を開催しています。

戸谷 成雄Shigeo Toya

戸谷成雄 (1947-) は、1974年に初個展を開催して以降、主にチェーンソーで木材を削ることで成形する彫刻作品を手がけてきました。1990年に開館した水戸芸術館の開館記念展である「作法の遊戯 ‘90年春・美術の現在」では、1990年代の現代美術の展開を予感させる23名の作家の作品が紹介され戸谷の作品も発表されました。中原佑介は、「現代美術の位置」と題した文章を展覧会カタログに寄せています。当時の現代美術を取り巻く状況を“総花的”に見せたこの企画展を通じて、日常的な生活感覚の基準から美術の“位置”を図る意味について論考しています。
【第10巻】『社会の中の美術-拡張する展示空間』参照

宇佐美 圭司Keiji Usami

宇佐美圭司 (1940-2012) は、美術の問題を絵画によって明示し、そこへの回答を試みる作品制作を行ってきました。中原佑介は、現代美術を扱うパイオニア的な場であった南画廊で1963年に開催された宇佐美の初個展に展評を寄せ、「否定という欲求が、単一で表面的な画面に向かわせる。そこに抽象表現主義以後という世代の絵画のひとつの性格をみることができよう。結末から出発したこの画家の作品は、たえざる否定の結晶化を思わせるものである」と語り、若き画家の作り出す絵画作品に新たな美術の地平を見ています。
【第3巻】『前衛のゆくえ アンデパンダン展の時代とナンセンスの美学』参照